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〝日本人は辺境人〟〜華夷秩序の中の日本〜

 

「日本人は、いつも思想は外からやってくると思っている。」

『この国のかたち』司馬遼太郎著  第1巻冒頭

 

 

こんにちは。

今回は久しぶりに書籍を紹介しつつ、それらを参考文献として話を進めていきたいと思っています。

書籍の紹介は、鴨長明の『方丈記』を紹介して以来ですね。

 

今回のテーマは、『日本人』。

実に壮大なテーマですが、日本人として生きる上で〝本来なら〟当然知っておくべき内容です。

いつもながら少し長くなりますが、興味がある方はぜひ、最後までお付き合いください。

では早速書籍の紹介です。

どちらも穴が開いてしまうんじゃないか。

と思うくらい何度も何度も読み返している本です。

 

私たち日本人は、

  • 「日本とは何か?」
  • 「日本人とはどう言う集団なのか?」
  • 「なぜ日本の国旗は日の丸なのか?」

といった根本的な問いに対して、明確な答えを持ちません。

 

そう、驚くべきことに私たちは、

自分たちが何者であるか」をほとんど知らないままで毎日を生きているのです。

 

もっと言えば、

「自分たちが何者であるかを知らなくても大して気にならない」のです。

 

しかし、そもそもこれが日本人の〝大きな特徴のひとつ〟なのです。

つまり、〝知らないふりができること〟がです。

 

 

日本人の振る舞いの〝基本パターン〟として、

丸山眞男さんは著書『日本文化の隠れた形』の中で、

「私達はたえず外を向いてきょろきょろして、新しいものを外なる世界に求めている」

 

司馬遼太郎さんは著書『この国のかたち』の冒頭で、

「日本人は、いつも思想は外からやってくるとおもっている」

 

と書いています。僕も、誠に同感です。

 

そして、内田樹さんはそう言った日本人の振る舞いはどこから来るものなのかについて、『日本辺境論』の中でこう言っています。

「日本人は〝辺境人〟である」

「とことん〝辺境人〟でいこうじゃないか」

 

では、「辺境」とは?「辺境人」とは何なのでしょうか?

 

「辺境」とは、「中華」と対の概念です。

古代の東アジアは「華夷秩序のコスモロジー」の中に全てが成立していました。

 

世界の中心に「中華皇帝」が存在する。

そこから王下の光があまねく四方に広がる。

近いところは「王土」と呼ばれ、遠く離れて王下の光が十分に及ばない辺境には、中華皇帝に朝貢する蕃国がある。

朝貢国は、皇帝に対して臣下の礼をとり、その代償にその国の国王は、冊封される。(冊封…皇帝が官位を授ける)

 

簡単に言えばこれが「華夷秩序」です。

 

蕃国はその方角ごとに、東は「東夷」、西は「西戎」、南は「南蛮」、北は「北狄」と呼ばれました。

 

さらに、中華王朝の国名全てが秦、漢、隋、唐、宋、明、清のように〝一文字〟なのに対し、

蕃国は、渤海、百済、新羅、任那、日本のように〝二文字〟で示されます。これも華夷秩序の価値観です。

この価値観は、私たちの名字に今も名残として残っています。(多くが漢字二文字ですよね。)

 

ここで重要なのは、

この中華思想というものは、中国が単独で抱いていた宇宙感ではなく、

「日本人を含む「夷」(蕃国)の人々もみな〝みずから進んで〟共有していた思想だった」

と言うことなんです。

 

日本列島は、少なくとも中華皇帝からは久しく朝貢国とみなされてきました。

 

ちなみに「日本」とは「日ノ本」、「日出ずる処」ですので、

「あるところから見て、東方に位置する処」と言う意味です。

「あるところ」とはもちろん中国です。

 

つまり、「日本」と言うのは「中国から見て東にある国」という意味です。

そして、国旗の日の丸はこれを図象化したものです。

 

……。

 

横道にそれたので、話をもとに戻します。

 

日本列島の住民たちが、自分たちを「東夷」と位置づけるこの宇宙感に最初に同意署名したのは、いまから1800年ほど前と言われています。

 

列島のひとりの王が、領土を実効支配していると言う事実の承認を、中華皇帝に求めに行きました。

そして、皇帝から蕃国の自治領の支配者の封爵を授かるのです。

 

それが、「親魏倭王」つまり、〝卑弥呼〟であり、「邪馬台国」の始まりです。

 

これが日本列島の住民が、世界史に最初に登場する出来事です。(『三国志』の「魏書東夷伝」)

 

ここから分かることは…

「日本列島の政治意識は、〝辺境人としての自意識〟からスタートした」

ということです。

この事実は、僕たちにとって非常に重要です。

 

しかし、日本人の〝本当の面白さ〟はここからです。

 

内田さんはこう推測します…

「日本は、華夷秩序における「東夷」というポジションを受け入れたことを〝逆手にとって〟政治的・文化的なフリーハンドを獲得したのではないか」

 

わかりやすく言うと…

都合の悪い事は「知らないふりを決め込んだ」ということです。

 

冒頭で「日本人の大きな特徴のひとつ」として紹介した内容は、こんな所に繫がってきます。

 

日本は「王下の光の遠く及ばない辺境の国」です。

だから、

「中華風の「正式」ではあれこれうるさい決まり事があるようですが、いかんせん遠い蕃国なものですから、情報が疎いのでわかりません。」

と言って「知らないふりをして、こちら都合で好きなようにやる」

 

これを〝辺境人〟としての大きなメリットとして、日本はこれまで様々な場面で、〝良くも悪くも〟利用してきたと言えます。

 

日本史の中でその例をいくつか挙げましょう。

 

【例1】

日本は大陸の律令制を導入しながら、科挙と宦官については、これを導入しませんでしたね。

しかも「〝なんとなく〟当家にはあわない気がするから」と言う理由で…。

いいですね〜実に日本人らしい。こう言うところが僕は好きです(笑)

 

【例2】

室町時代にはなんと、「征夷大将軍」でしかない足利義満が、天皇を差し置いて「日本国王」と勝手に名乗り、日明貿易を行なっています。

これは、課長が勝手に「社長です。」と名乗り、取引先に出向くようなものですから、明国皇帝に対しても、天皇に対しても非礼を働いていることになります。

 

どのような狙いがあるのかわかりませんが、著書の中で内田さんが言うように、「中華皇帝に対して、真面目に臣下の礼をとる気がない」ことだけははっきりと分かりますよね。(笑)

 

ではなぜ、日本だけにこのような好き勝手な振る舞いが可能だったのか?

それは、大陸との間に大海が横たわっていたからです。(これは私達現代人の感覚で考えるよりも大きな隔たりです。)

 

これによって日本は、原始以来、明治維新まで、〝ガラパゴス諸島並みに独自の〟政治制度や国風文化を、あまり邪魔が入らない環境で、じわじわと醸成していきました。

 

ちなみに朝鮮は、「小中華」として「本家そっくり」にこだわったせいで、政治制度についても、国風文化についてもオリジナリティーを発揮できなかった。

それは、中国と「陸続きだったから」に他なりません。

 

つまりは何が言いたいのかと言うと…

 

日本人は国家レベル・全国民レベルで「知らないふりをする」ことができる集団だ と言うことです。

 

●憲法上の「戦力の不保持」と「自衛隊」の矛盾 …

●核廃絶運動とアメリカの「核の傘」で軍事的安全を享受している矛盾…

●「日本人」であるのに「日本人とはどういうものか?」ということについて、明確な答えを持たない矛盾…

 

こういったことについて、

〝国家レベルで〟〝全国民レベル〟で「知らないふり」ができる(しかも無意識に)ことが日本人の大きな性質のひとつです。

 

こんな国民は、世界中どこを探してもいません。

なにしろ、こんな国は歴史上他に類例を見ないのですから。

 

内田さんが著書の中で再三言っていることをそのまま引用しますが…

だからと言って、「日本人が悪い」とか「日本人が劣っている」とか言っているわけではありません。

 

「どうせなら、とことん「辺境人」で行こうじゃあないか。」

と、言っているのです。

 

日本を「ふつうの国」にしようと虚しい努力をするくらいなら、(どうせ無理ですし…笑)〝こんな変わった国の人間にしか出来ないこと〟があるとするなら、それが何かを考える方が、私たちの幸せにとっても、国民にとっても絶対良いはずですよね。

 

だから皆さん…

とことん「辺境人」で行きましょう!

コメント

  1. 匿名 より:

    服装とは自分が何者であるかという思想を表すものならば、装う事を愛する者としては、そのような思想を自分で持たないといけません。
    あと他国のスタイルのいいとこ取りは構わないと思います。ネクタイはクロアチア傭兵の装いの模倣でしたし、そんな事は世界中で行われてきました。そして他国の全てを模倣してきた国も少ないです。

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