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ハワイアン・シャツの来た道 【前編】

 

ハワイアン・シャツの来た道

〜ハワイアン・シャツ物語〜

【前編】

 

こんにちは。

気がつけばもう8月ですね。 

 

夏真っ盛りです。

 

今回は、そんな季節に相応しいテーマを選びました。

 

〝ハワイアン・シャツ〟です。

 

言うまでもなく、アメリカ・ハワイ州で着られている、伝統的なウエアです。

 


引用:wikipedia

 

「アロハ・シャツ」という愛称で世界中の人に親しまれている、夏の定番ですよね。

 

しかし、その知名度とは裏腹にそのルーツや歴史については、あまり知られていません。

 

〝ハワイアン・シャツ〟の誕生は、1920年〜1930年頃と言われています。

 

そこには、当時の日本人移民の文化が深く関わっており、

ハワイアン・シャツの誕生に大きく貢献したのも、

「アロハ・シャツ」という言葉を広めその後定着させたのも、

19世紀後半にハワイに移住して来た、宮本長太郎という日本人シャツ職人と、その息子のコウイチロウだった。という説が有力です。

 

そう、〝ハワイアン・シャツ〟とは日本人と切っても切れない、とても強い縁を持つ服なのです。

 

そんな〝ハワイアン・シャツ〟が辿って来た長い道のりを、歴史を紐解きながら順に見て行きましょう。

 

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【1】西洋人のハワイ上陸とハワイアン・ウェア

現在のハワイアン・ウエアの歴史は、ひとりの西洋人がハワイ諸島に上陸したことによって、幕を開けます。

18世紀末、西洋人として初めてハワイ諸島に上陸した、ジェームズ・クックです。

 

【ジェームズ・クック】


引用:wikipedia

 

以来、次々とやって来たキリスト教宣教師の妻たちが、裸同然で生活するネイティブ・ハワイアンの女性たちを見て驚き、とりあえず縫製を教え、衣服を着せたのです。

 

おそらく、「キリスト教的に見て淫らだから」という、西洋人視点の発想だったのでしょう。

 

この時、「ホロ(縫う)」と「ク−(止まる)」を繰り返し唱えながら制作にあたったことから、

出来上がったドレスを、〝ホロク〟と呼ぶようになったと言われています。

 

これが、現在の〝ムームー〟の原型です。

 

しかし…この西洋人との接触を機に、ネイティブ・ハワイアンたちは、

「服を着る」という事と同時に、「働く」という事も教えられていきます。

 

そして西洋人によって、徐々にそれを強制されるようになります。

 

【2】19世紀  移民達のハワイ

19世紀に入ると、ハワイ諸島ではサトウキビ産業が盛り上がりを見せ、それに従事するために、多くの移民が各国からハワイに押し寄せて来ます。

 

当初は、大半が中国人でした。

19世紀にハワイに渡った中国人の数は、およそ46,000人と推定されています。

 

「官約移民」として日本からの移住がスタートしたのは、1868年(明治元年)の夏でした。

年号が明治に変わったのはこの年の秋なので、正確には慶応4年です。

その数は総勢153人で、彼らは「元年者」と呼ばれました。

その中には、子供も2人含まれていたと言います。

 

江戸から大阪へ旅するにも、別れの盃を交わしたと言われるこの時代に、彼らは見ず知らずの遠い南の島に旅立ったのです。

 

その決意は、並大抵のものではなかったはずです。

 

しかし、当時の明治政府は、この事実を公式には認めていません。

 

日本人移民第1号が生まれる前年(1867年)に、

横浜に駐留していたハワイ国総領事・ヴァン・リードと、徳川幕府の間に結ばれていた「日本・ハワイ臨時親善協定」を、

発足したばかりの明治新政府は破棄したからです。

 

日本人の海外移住に的確な判断が持てないことと、「奴隷」として売られるとの噂が流れたことが大きな理由でした。

 

これに困惑したヴァン・リードは、最後の手段として、明治政府の許可を得ないまま、闇の中で移民たちを乗せた船を出航させてしまったのです。

 

その後、1900年の「契約移民廃止」により、「自由移民」扱いになりますが、日本からハワイへの移住は、1908年まで続きます。

 

「官約移民」としてハワイに渡った日本人は約29,000人、その後「私約移民」「自由移民」としてハワイに渡った数は、実に約125,000人と推定されています

 

それほど多くの日本人が、当時ハワイに移住して行ったのです。

この時海を渡った人々が、現在の日系ハワイアンの祖先に当たります。

 

現在、こういう歴史上の事実があったという事を知る人はほとんどいません。

 

ぜひ、多くの人に知っておいて頂きたい史実です。

 

【3】移民達の労働着

こうしてハワイに到着した日系移民一行は、ハワイ移住民局と契約を取り交わし、マウイ島、オアフ島、ラナイ島などの耕作地に散って行きました。

 

しかし、そこで彼らを待ち受けていたのは、炎天下での12時間以上に及ぶ過酷な労働と、西洋人による搾取の日々でした。

 

この時、移民労働者たちには作業着が支給されなかった為、人々は劣悪な労働条件の中で工夫を凝らし、簡単なシャツやジャケットを作って着ていました。

 

そう、この時代にハワイ諸島で作られた衣服は、

大半が移民達の作業着として作られたものだったのです。

 

その中に、「パラカ・シャツ」と呼ばれる作業着がありました。

仕様は、酷暑のハワイ諸島での労働に耐え得るよう、裾をズボンに入れずに出して着るモノで、身幅も着丈もゆったりとしていました。

 

パラカ・シャツは色が青く、日本の「絣(かすり)」に近い雰囲気を持っていた為、日系移民に特に愛されていたようです。

 

そのモデルとなったのは、アメリカの〝1000マイル・シャツ(サウザンド・マイル・シャツ)〟だと言われています。

 

これはアメリカで、オレゴン街道やオーヴァー・ライド街道をカリフォルニアに向け、延々旅した人達が来ていたシャツのことでした。

 

つまり、「1000マイル旅しても破れないシャツ」という意味です。

 

【パラカ・ジャケット(左)と、パラカ・シャツ】

【Webより画像を転載】

 

そしてこの「パラカ・シャツ」こそが、現在の〝ハワイアン・シャツ〟の原型なのです。

 

〜【中編】に続く〜

 

ハワイアン・シャツの来た道 【中編】
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【参考文献】

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