ハワイアン・シャツの来た道
〜ハワイアン・シャツ物語〜
【後編 2】
【1】もうひとつの「アロハ・シャツ」誕生の物語
ひとつ前の記事で、「アロハ・シャツ」という呼称が初めて使われたのは、
「ムサシヤ・ショーテン」が、1935年にホノルルの新聞社に出した広告だった。という話を書きました。
しかし、「アロハ・シャツ」誕生にまつわる話はもうひとつあります。
そこには「ムサシヤ・ショーテン」と同時期に、洋服屋を営んでいた「エラリー・チャン」という人物の存在がありました。
【2】エラリー・チャンと「アロハ・シャツ」
エラリー・チャンの父、チャン・カム・チャウは、
中国からハワイに移民として渡って来て、「C・K・チャウ&カンパニー」という雑貨屋を、チャイナ・タウンのノース・キング・ストリートに開きます。
エラリーが生まれたのは、1909年、
ハワイの名門プナハウ高校を卒業後、イエール大学に進学し、経済学を学ぶ秀才でした。
1931年に卒業した後、ホノルルに戻って父の店を継ぎます。
この時、店名を「キング・スミス・クロージア・ショップ」と改め、新たな商品の開発に乗り出します。
そこで彼が目をつけたのは、母校「プナハウ高校」の生徒達が着ていた、花柄のプリントシャツでした。
この当時地元では、大抵の人が無地かストライプ、あるいは白と青のチェックのシャツを着ており、
花柄などという洒落たシャツを着ていたのは、プナハウ高校の生徒くらいだったのです。
さっそくエラリーは、同じものを2〜3ダース作ってもらうべく、発注をかけました。
この発注先が、すでにその名が知れ渡っていた「ムサシヤ・ショーテン」でした。
そして1933年、出来上がったシャツをショー・ウィンドウに飾り、
「アロハ・シャツ」という名前をつけて、1枚 1ドル95セントで売り始めたのです。
エラリー・チャンはこの時に自身としては初めて、「アロハ・シャツ」という呼称を使いました。
【3】「アロハ・シャツ」を商標登録した男
彼は結局1936年まで、この時作ったシャツを売り続けるのですが、この時期にはすでに、
「ムサシヤ・ショーテン」を含む他の店でも「アロハ・シャツ」という名前で同様のシャツが売られていました。
「他の店と差別化するためにはどうすればいいか…」
考え抜いた彼は、
「アロハ・シャツ」という名称自体を、商標登録してしまおうと思い立つのです。
ここからの行動力が、イエール大学卒の秀才であるエラリーは違いました。
すぐに実行に移し、なんとその年の間(1936年)に商標登録の認可をもらっているのです。
しかもこの時、
「アロハ・シャツ」という名称だけでなく、曲がった椰子の木の図柄も一緒に登録し、
絵葉書や包装紙・看板など、あらゆる宣伝材料として使えるように事細かに申請しているのです。
さらに翌年(1937年)には、シャツの襟裏につけられた「織りネーム」も商標登録しています。
【いくつか存在する「織りネーム」のうちのひとつ】
このエラリー・チャンによる、〝アロハ・シャツの商標登録〟という出来事は、
それまで漠然と人々から「アロハ・シャツ」と呼ばれ親しまれていたモノを、初めて商業ベースに乗せ、商材として明確な「アイデンティティ」を与え世界に発信した。
という意味で、
「ハワイアン・シャツ」の歴史において、大きな転換点になったことは間違いありません。
「ムサシヤ・ショーテン」の宮本親子と同じく、エラリー・チャンも「ハワイアン・シャツ」の発展に欠かせない人物なのです。
【4】エラリー・チャンのその後
1940年に入ると、エラリーは店を妹のエセルに引き継ぎ、シャツ販売の一線から退きます。
しかし、彼の商才はずば抜けていました。
その後エラリーは、アメリカン・セキュリティー銀行に迎えられ、最後は頭取にまで登りつめています。
【アメリカン・セキュリティー銀行時代のエラリー・チャン氏】
これは僕の想像でしかありませんが、
これほどの秀才ですから、彼にとって「アロハ・シャツ」の販売は、それほど魅力的なモノではなかったのかもしれませんね。
逆に言うと、
彼がもし、一生をかけて家業の店の発展に尽力していたら、
のちの「カメハメハ」などよりも有名な、偉大なる「ハワイアン・シャツ・メーカー」になっていたに違いない。
なんて事も、考えてしまうわけですが…
【5】歴史に埋もれた十数年の記憶 〜ハワイアン・シャツのその後〜
「ハワイアン・シャツ」の素材は、戦後〜50年代にかけて、大きな転換期を迎えます。
それまでの「ロウ・シルク」「シルク」「コットン」に変わり、抜群に発色が良い「レーヨン」が台頭してくるのです。
この頃は、
メインランド(アメリカ本土)から派遣された、ジョン・メイグスら人気デザイナー達が手掛けた、斬新なデザインや美しい柄が目を引き、
「ハワイアン・シャツ」が世界中で爆発的な人気を博した時代です。
彼らが手がけたデザインの多くが、
現在「ハワイアン・シャツ」「アロハ・シャツ」と呼ばれるものの基本になっており、
「ヴィンテージ」と呼ばれる柄も、そのほとんどがこの時代に出来たものです。
ですから戦後〜50年代が、「ハワイアン・シャツ」の最盛期であったと言えます。
さらに1960年代に入ると、新素材の「ポリエステル」が登場してきます。
これにより、ほぼ全てのハワイアン・シャツ・メーカーが、この安価で扱いやすい素材に目を奪われ、
レーヨン製の「ハワイアン・シャツ」は、あっという間に姿を消していきます。
レーヨン製の「ハワイアン・シャツ」が作られた期間は、僅かに十数年間という短いものでした。
「技術や科学の進歩」の陰で、人知れずひっそりと〝良いもの〟が失われていく…
という現在に繋がる一連の流れは、この頃からすでに始まっていたんですね。
〜【完】〜
【付録】ハワイアン・シャツ年表
●1819年
ハワイ王 カメハメハ1世死去。
同年イギリスから宣教師が来島。
●1848年
白人達により、ハワイに土地制度が確立される。
●1849年
サトウキビの栽培が始まる。
●1851年
サトウキビ農場の労働力として、中国人移民を招致。
●1868年
日本からの最初のハワイ移民が到着。
☆この頃、「パラカ」という作業着が作られ着られる。
●1898年
ハワイがアメリカ合衆国に併合される。
●1900年
契約労働廃止
☆1920年代
※この頃、和柄やタパ柄などの綿のシャツが生まれる。
●1922年
ハワイで最初の量産型衣料工場が設立される。
●1924年
アメリカ合衆国が新移民法を制定。
☆1930年代
※「ムサシヤ・ショーテン」などの個人商店が、本格的に既製品のシャツを売り始める。
●1933年
アメリカで大恐慌
●1935年
「ムサシヤ・ショーテン」が新聞広告で、初めて「アロハ・シャツ」という呼称を使用。
●1936年
カメハメハ・ガーメントが工場を設立。
エラリー・チャンが「アロハ・シャツ」を商標として登録。
●1941年
太平洋戦争が勃発。
●1945年
太平洋戦争終結
☆戦後〜1950年代
※この頃、レーヨン製のハワイアン・シャツが誕生。
☆1960年代
※ポリエステルが台頭。 レーヨン製のハワイアン・シャツが消える。
【参考文献】
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