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〝一生モノ〟を考える【2】

 

 

〝一生モノ〟を考える【2】

 

こんにちは。

 

このブログは、〝洋服屋の一生モノブログ〟というタイトルからも分かる通り、キーワードは、〝一生モノ〟です。

 

「〝一生モノ〟というフィルターを通してモノを見る」ことで、世の中に氾濫したモノを一度篩(ふるい)にかけ、本当に良いモノだけを抽出していこう。というのが大きなテーマです

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【1】〝一生モノ〟を考える

〝一生モノ〟という言葉の意味を知ろう思って、家にある辞書を開くのですが、載っていません。

 

ならばと、図書館で「広辞苑」を開いてみますが、やっぱり見当たりません。

 

最終手段で「一生モノ」をインターネットで検索してみると、

 

「一生涯にわたって使い続けられるモノ」と出てきます。

 

確かにその通りなんだけど、どうもすっきりしません…。

 

どうやら、この〝一生モノ〟という言葉、公式に示された「明確な定義」が存在しないようです。

 

では一体、〝一生モノ〟とはどういう意味なのか?

また、どういったモノを指す言葉なのか?

 

今回は、それを考えていきたいと思います。

【2】〝一生モノ〟を考えるようになった「きっかけ」

このブログのどこかでも書きましたが、全てのモノはこの世に誕生したその瞬間から、「死」に向かって時間が流れていきます。

 

これはどんなモノであろうと、どんな生物であろうと逆らえない、ひとつの「運命」です。

 

僕が〝一生モノ〟という言葉について特別な感覚を持ったのは、社会人になって初めて買ったドレスシューズを、5年程履き込んだ頃です。

 

いつものように家でこの靴を磨いていて、ふと思いました。

 

「この靴、買った時より数倍カッコ良いな…」

 

5年間履き込んだことで、細かいキズやシワなどが至る所に見られるのですが、それも含めて、買った当初よりも5年経ったこの時の方が、何倍も魅力的に感じられたのです。

 

この感覚は当時の僕にとっては、なんとも言えない不思議なものでした。

 

なぜなら、この頃の僕はというと…

 

「シーズン毎の流行を追いかけては、〝短サイクルの消費〟を繰り返す」と言う愚行に走り、

 

洋服業界が仕組む巧妙な「商業システムの罠」に、まんまと飲み込まれていたからです。

 

この時の不思議な感覚を言葉にすべく、当時の僕は必死に格闘しました。

 

そしてこの時、〝一生モノ〟という、それまでもよく耳にしていた言葉が、初めてすう〜っと、心の中に入ってきたのです。

 

この時から僕は、「〝一生モノ〟とは何か。」という、非常にシンプルでありながら、難解な説問と向き合うようになります。

【3】〝一生モノ〟とは何か。

「〝一生モノ〟とは何か。」という問いに対して、辞書的な解答を導き出すとすれば、

 

「本来はその世代の人達だけに向けて作られたはずなのに、時に世代を超越し、実用に耐えてしまうモノ」

 

といったところでしょうか

 

言ってしまえば、〝一生モノ〟とは、結果論なのです。

 

つまり、自分が死ぬ間際にあって、「これ結局、一生かかっても使い切れなかったな。」と言わせてしまうモノ。

 

これこそが、「〝一生モノとは何か?」についての、〝究極の答え〟なのでしょう。

 

しかし、そこからは、現代人がとうの昔に捨て去ってしまった、

〝モノと向き合うにあたっての原点〟を、かなり濃厚に抽出することができます。

 

それは、「作り手」と「使い手」の共同制作というものです。

【4】「作り手」と「使い手」の共同制作

「作り手」と「使い手」の共同制作とは、「作り手」と「使い手」の責任分担と言い換えても良いでしょう。

 

製品(モノ)がメーカー(作り手)からお客さん(使い手)に渡る時は、まだその製品(モノ)は、いわば「半製品」であり、完全な製品(一生モノ)にするには、使い手の努力が必要だということです。

 

簡単に言うと、「使い方次第で、最高のパートナーになるようにしっかり作っておいたから、あとは任せたよ。よろしく。」

という職人のメッセージが込められた「半製品」が店に並んでいて、

 

「承知しました。その熱い想い私が受け継ぎ、必ずや完成形(一生モノ)にして見せます。」

という熱い想いでお客が買っていく。

 

これがメーカー(作り手)とお客さん(使い手)の本来の関係性である。ということです。

 

つまり、〝一生モノ〟とは、

熟練された最高級の技術を有する職人が、丹精込めて作った製品が存在し、その上に持ち主の長期にわたる、センスの良い「使いこなし」が加り、

 

結果として、

 

その製品が到達する〝完成形〟のことを指す言葉なのです。

【5】親から子へという思想

考えてみれば、これは少し前までは当たり前のことでした。

 

全行程を職人が手作業で行い、時間をかけて仕立てられていた時代のジャケットやスーツは、親から子へ受け継がれることを想定していました。

 

それが、「切羽」や「台場仕上げ」という英国の伝統的な仕様に見られます。

 

【切羽仕上げが施された上衣の袖】

 

今でも、英国やイタリアのクラシックなスーツにはしっかりと継承されていますが、「切羽」の場合、いちばん奥の、4番目のボタンホールは開けずに、あえて糸かがりだけにして塞いでおくのです。

 

これは、もし子供の腕が自分より長く、袖口を出す必要があった時、袖口を出した後、4番目のボタンを取り外しいちばん前に持ってきて、そこに新たなボタンホールを開ける。

という修理が簡単に出来るようにと考えられた、職人の知恵です。

 

あとは、いちばん奥に残った糸かがりを取り除けば、跡残りもなく綺麗に仕上がるというわけです。

 

「台場仕上げ」にしても、元々は子供に引き継ぐ時、古くなった裏地を張り替える必要が出た場合、裏地を剥がしやすくするために職人が施した細工です。

 

【台場仕上げが施された上衣】

 

このように、ひと昔前までは多くのモノが〝一生モノ〟でした。

 

それなのにいつの頃からか、

 

作り手は、

「一生使われたら困るから、数年経ったら壊れるように作っておきました。その時は買い換えてくださいね。

 

というメッセージを前面に押し出した製品を店に並べ、

 

使い手も、

「数年もすればどうせ〝流行遅れ〟で着れなくなるから、心配しなくても使い捨てるよ。」

という軽い思いで、ほいほい買っていくようになりました。

 

これが「大量生産・大量消費時代」の正体だと思うのです。

 

もう一度繰り返します。

 

〝一生モノ〟とは、

人生の最後になって、「これ、結局一生かかっても使い切れなかったな…。」と言わせるモノです。

 

この定義をしっかり頭に入れた上で、

 

「これは、〝一生モノ〟になり得るクオリティ(半製品)のモノか?」

 

「自分は、これを〝一生モノ〟(完成形)にすることができるか?

 

という事を、買い物の際に考えられる「使い手(消費者)」が徐々にでも増えていけば、自然淘汰がさらに加速し、粗悪なモノ作りをしているメーカーは完全に生き残れなくなるでしょう。

 

僕は、「使い手(消費者)」が正しい視点をもつことができるよう、このブログを通じて、少しでもお手伝いできればと思っているのです。

 

【参考文献】

コメント

  1. 山田大智 より:

    はじめまして、山田と申します。
    非常に感銘を受け、コメントさせていただきます。
    当方、東京都内中心にスポーツトレーナー、パーソナルトレーナーを生業としています。自ら言うのもおこがましいのですが、職業柄、筋肉質な体型をしています。

    洋服選びに悩みながら、体型に合った服を探しています。仕事はスポーツウエアやジャージで行うのですが、私服はブログでも紹介されているバブアーやバラクータG9などの洋服を好んで着ています。ふと、なぜか窮屈に感じることなく着ていられることに疑問・興味を持ち、調べだしたところこちらのブログを見つけました。

    ブログを拝見し、歴史を背景に考えられた服だからこそ着ていられるのではないかと感じています。非常に勉強になり、洋服の選び方、着方を考えるきっかけになりました。ありがとうございます。

    業界への警鐘について、言葉を置き換えるとスポーツトレーナー業界も同じことが言えるのではないかと感じました。私が大切にしている、私利私欲に溺れずに身体の原理原則に沿ってお一人お一人の目的に合わせた提案を出来るよう、仕事に対しての姿勢を思い出しました。

    つらつら長文失礼致しました。
    引き続き、ブログ楽しみにしています。

    • タニヤンタニヤン より:

      山田さん

      心のこもったコメントありがとうございます。

      おっしゃる通り服飾史をベースに洋服を考えると、
      もともと服はある課題が存在していて、それを解決しようと考え抜かれて生まれたものである事がわかります。
      (例えば、極寒の環境下で風や雨が侵入しない素材は何か?過酷な環境下でも運動量を維持するためのパターンなど。)

      また衣服はスコットランドやイングランド、北欧地域など、厳しい自然環境の下での生活を強いられていた人々の衣服がベースになって進化してきた歴史を持ちます。

      人々が抱える課題を真摯に解決してきた服だからこそ、「手入れ」を前提として長く着れるように作られているのは当たり前だし、そもそもいつ死ぬかもわからない当時の人の感覚では、全てが「一生モノ」だったと思うのです。

      そう考えると、「一生モノとは何か?」という問いが存在する時点で、
      僕たち現代人は、「服飾文化を失ってしまった」と言えるのだと思います。

      現代人は(特に日本人は)そんな過酷な環境下に生きていないので、衣服に対する意識はすっかり薄れてしまいました。
      その結果、100年近く人々に愛されてきた服から1年着たら寿命が終わってしまう服まで、世の中に歴史上見たこともないほど服が溢れ返ってしまっています。

      問題は、これだけ服が溢れているのに「多様性」がないことです。
      服の多様性という面で見れば、100年前と比べて退化していると思います。

      そろそろ整理しないといけない時期なんだと思います。

      僕は売る側も買う側も「服は文化である」ということをもう一度思い出して欲しいという思いから、このブログを始めました。

      ですから、今回の山田さんのコメントが非常に嬉しかったです!
      ありがとうございます。

      今後とも宜しくお願いします☆★

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