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北海の小島に息づく伝統【後編】 〜フェア・アイル・セーター物語〜

北海の小島に息づく伝統

〜フェア・アイル・セーター物語〜

【後編】

 

こんにちは。

 

このブログは、〝洋服屋の一生モノブログ〟というタイトルからも分かる通り、キーワードは、〝一生モノ〟です。

「〝一生モノ〟というフィルターを通してモノを見る」

 

ことで、世の中に氾濫したモノを一度篩(ふるい)にかけ、本当に良いモノだけを抽出していこう。というのが大きなテーマです。

 

今回は、「フェア・アイル・セーター物語【後編】」をお送りします。

 

【前編】では、

フェア島の紹介と、

フェア・アイル・セーターにまつわる「最大の謎」を取り上げました。

 

【後編】では、

その「謎」の解明と、

北海に浮かぶ小さな島のセーターが、 どのようにして世界中に広まっていったのか。

について書いていきます。

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【1】フェア・アイル・セーターの謎

では、フェア・アイル・セーター「最大の謎」とは何だったかをおさらいしておきましょう。

 

それは、

フェア島を含む、シェトランド諸島の各島で編まれているセーターは、そのほとんどが淡いパステルカラーの単色であるのに対し、

 

フェア島で編まれるセーターだけが、多色使いで複雑なジオメタリック・パターンを特徴としていること。

でしたね。

 

では、一体なぜなのか?

 

結論から先に申し上げると、

 

答えは、

 

「フェア島は、様々な異国文化が流入する地理的環境にあり、

各国を象徴する柄や紋章が次々と伝わり定着しました。

 

そして、島民がそれらを独自のセンスで組み合わせ、

代々伝わる靴下やセーターなどのニット製品を編んだ結果、

カラフルで複雑なパターンのものが誕生した。」

 

という事です。

 

以下、詳しく説明していきます。

 

まずは、移動手段が主に船だった中世〜近世にかけて、

シェトランド諸島が絶好の寄港地になっていたこと

を知っておかなければ始まりませんので、

 

時間を大航海時代のヨーロッパまで戻すことにしましょう。

【2】大航海時代のヨーロッパ

「ヨーロッパ大陸から北欧に」または、「北欧からヨーロッパ大陸に」という航路を考える場合、

誰もが一度は、イギリス海峡(イギリスとフランスの間の海峡)を通るルートを考えるはずです。(下の地図の黒い矢印の航路です)

 

しかし、各国が海上の覇権を争っていたこの時代において、

イギリス海峡を通過するのは、今僕たちが考えるほど簡単なことではありませんでした。

 

とにかく海が荒れやすい海峡であったことと、

自国が交戦国となった場合には、容赦なくイギリスとフランスから攻撃されてしまうことがその理由です。

 

そこで昔の商船は、大西洋からノルウェー海に進路を取ることが少なくなかったと言います。

(下の地図の赤い矢印の航路です)

 

この航路を選択した場合に、

シェトランド諸島は、寄港地として絶好の場所に位置していたのです。

(小さい黒矢印で示した島が、シェトランド諸島です。)

 

そして、その中にはもちろん「フェア島」も含まれていました。

 

【イギリス海峡航路と大西洋航路の例】

 

ということは、つまり、

 

この時期に、イギリス文化やノルウェー文化・デンマーク文化といった近隣諸国の文化はもちろんのこと、

 

遙か遠くフィンランド、エストニア、リトアニア、ポーランド…など

様々な国の文化が、フェア島に伝えられたと考えることが出来ます。

【3】「エル・グラン・グリフォン号難破事件」

それを象徴する出来事として、スペイン軍の艦船「エル・グラン・グリフォン号難破事件」の話が伝えられています。

 

これは、スペインの無敵艦隊がイギリスを攻め大敗した1588年8月の話で、

敗れた上に、稀に見る暴風雨に見舞われたスペイン軍艦「エル・グラン・グリフォン号」が、フェア島の東側の入江で難破してしまうという事件でした。

 

この時、命からがらフェア島にたどり着き助けを求めたスペイン兵の数は、なんと約200名であったと伝えられています。

 

北海にポツンと浮かぶ、この小さなフェア島で、これだけの人数を養う余力があるだろうか…?

 

しかもイギリス領のフェア島にとって、この時すでに敗残兵であったとは言え、スペイン兵はもちろん敵です。

これだけの人数の敵兵を島にあげれば、島ごと乗っ取られてしまう恐れも当然あります。

 

フェア島は大きな決断を迫られました。

 

しかし、当時のフェア島の教会牧師であったジェイムズ・ケイは、

 

「我々にできるだけのことはしてやろうではないか。」と言って、

敵であるスペイン兵200人全員を島に上げ、助けたのです。

 

その後スペイン兵は、数週間フェア島に滞在した後、スペインに無事帰国することができたと伝わっています。

【4】異国文化の流入とフェア・アイル・セーター

彼らはこのフェア島民の人道的で温かい対応に、大いに感謝の念を示したことでしょう。

 

そして数週間の滞在中に、島の人々と様々な交流を持ったに違いありません。

 

この時、微量ながらスペイン文化がフェア島に伝わったのではないかと言われています。

 

確かに、

 

現在でも「フェア・アイル・セーター」の模様の中に、

「グラナダの星」や「ムーア式の矢」・「バスクの百合」といったスペイン由来のものが存在する理由はここにある。

 

と考えると辻褄が合います。

 

当時のフェア島の人々は貧しく、自分たちの生活を支えるために、靴下やセーターをはじめとするニット製品を編んでいたのですが、

 

それとは別に、

寄港してくる様々な国の商船の乗組員に向けた、「物々交換用商品」としてもニット製品を編んでいました。

 

それらはフェア島の人々にとって、生活を支える大事な商品でしたので、

色んな国の人が「欲しい!」と思ってくれるような魅力的な商品を作る為に、当然ながら、日々様々な工夫をしていたに違いありません。

 

例えば、

異国から伝わった様々な国の模様や紋章を、複雑に組み合わせてみたり、

より目を引くように、鮮やかな色彩を加えてみたり。

といった具合に…

 

こうした「フェア島独自の」諸事情を背景に誕生し、その後発展していったのが、当時としては圧倒的にカラフルで、より複雑なジオメトリック・パターンを持つ「フェア・アイル・セーター」の正体だったというわけなのです。

【5】世界中に伝播した「フェア・アイル・セーター」

そして、この小さな島でひっそりと編まれていた「フェア・アイル・セーター」を世界中に広めた人物が、

当時28歳だった英国皇太子、のちのウィンザー公でした。

 

世紀の伊達男として知られていた彼は、

1922年 セント・アンドリューズ・ゴルフ場に、フェア・アイル・セーター姿で登場したのです。

 

【1922年に描かれた英国皇太子の肖像画】

 

1920年代のゴルフスタイルといえば例外なく、

ノーフォーク・ジャケットにニッカーボッカーズというものでしたので、

 

「セント・アンドリューズに、フェア・アイル・セーター姿の皇太子登場す」

 

というニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡り、この洒落たスタイルは世界中で真似されました。

 

こうして「フェア・アイル・セーター」は、現在僕たちが知るような「冬の定番セーター」としての地位を確保していったのです。

 

フェア・アイル・セーターの複雑怪奇な模様には、大航海時代から繋がる〝悠久の歴史〟が凝縮されています。

 

皆さんも、一度ゆっくり眺めてみてはいかがでしょうか。
【参考文献】

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