ニライカナイに想いを馳せて…
〜竹富島紀行〜
沖縄八重山地方には、古くから〝ニライカナイ信仰〟があります。
〝ニライカナイ〟とは「海の彼方にある神の世界」という観念であり、死後、死者の魂は〝ニライカナイ〟に行くと今も昔も信じられています…
2015年2月25日〜2月28日、僕はある人への追悼の意を込め、ひとり旅を敢行しました。
数年前に亡くなった、僕の親友です。
2月25日は彼の命日。
彼の冥福を祈るために僕は、一路沖縄を目指していました…
お目当ては、日本屈指の夕陽の名所であり、今なお〝ニライカナイ信仰〟が色濃く残る地です。
大阪から飛行機で3時間。沖縄 石垣島に着いた僕は、その足で石垣港に向かい、港から出る最終の船に乗り込みました。
最終便の船内には、観光客はほとんどいません。
10分もすると、前方にカレー皿をひっくり返したような小さな島が見えてきました。
竹富島…
ここが、この旅の目的地です。
船が竹富港に着くと、日帰りで島を訪れていた観光客が、そのまま最終便として石垣港に引き返すこの船に乗り込もうと、桟橋に集まっていました。
それをよそ目に、僕はさっさと船を降ります。
この日の夜を石垣島で過ごすこの集団は、ドカドカと忙しなく船に乗り込み、あっという間に最終の船は行ってしまいました。
最終便が去った後の島は、さっきまでの喧騒が嘘のように、ひっそりとした静寂に包まれます。
船着場には、すでに宿の送迎車が到着していました。
「よくお越しくださいました。さあ、乗ってください。」
そう促され、僕は迎えの白いバンに乗り込みました。
宿はいつもの「大浜荘」
ここはひとり旅の人や、バックパッカーが多く宿泊していて、家庭的な雰囲気のとても良い宿です。
僕はいつも、ここを常宿にしています。
時刻は18:30。
宿に着くとすぐに美味しい夕食をいただき、夕陽を見る為、島の西側を目指して美しい集落の中を歩きます。
竹富島の集落の美しさについては、司馬遼太郎さんが『街道をゆく 6 〜沖縄 先島への道』の中で次のように表現しています。
〝本土の中世の集落のように条理で区画され、村内の道路はサンゴ礁の砂でできているために、品のいい白味を帯び、その白さの上に灰色斑(はいいろまだら)ともいうべき珊瑚の石垣が続き、その全体として白と灰色の地の上に、酸化鉄のような色の琉球瓦の家々が夢のように並んでいる〟
これ以上の説明は必要ありませんね。
途中、竹富島の英雄 西塘(にしとう)を祀った御嶽(うたき)に立ち寄りお祈りを捧げた後、さらにしばらく歩くと、島の西側に突き出た、今は使われていない桟橋に到着します。
この場所こそが日本屈指の夕陽の名所である、竹富島の「西桟橋」です。
冒頭でも触れましたが、八重山地方には〝ニライカナイ信仰〟が古くから根付いています。
ニライの語源は、「ニ」(根)・「ラ」(地理的空間を表す接尾語)・「イ」(方位を表す接尾語)で、「根所の方」という意味です。
カナイについては、琉球語によく見られる、韻をとるための言葉という説や、「彼方(かなた)」を意味する言葉という説があります。
宮古島や八重山地方では、この「海の彼方にある神の世界」のことを〝ニーラ〟といいます。
竹富島の西海岸には〝ニーラン石〟(ニーラの石)が大海原に向かって立っており、ここがニライ(根所)から来る神の足がかりの地とされています。
この旅の目的地は、そんな神聖な場所だったのです。
19:00を過ぎ、徐々に太陽が水平線近くに沈み出すと、空と海の色がなんとも言えない神秘的な色に変わりだします。
桟橋では、一瞬「ワアッ」っという歓声があがった後、そのあまりにも美しい光景に、そこにいる誰もが思わず言葉を失いました…
上空に少し空の青と緑を残しながら、太陽自身は燃えるような橙に輝き、そこから放射線状に赤、朱、橙、黄色、赤紫、と複雑な光線を発し、その光の束は、ものすごいスピードでこちらに迫ってきます。
そしてその途中にどっしりと横たわる大海原を、一気に染め上げてしまいます。
はるか向こうにある西表島と、その上に帽子のようにフワフワと浮かぶ雲が、太陽からの力強い光線に遮られ、蜃気楼のようにぼんやりと水平線に映ります。
【竹富島 西桟橋からの夕陽】
それをじ〜っと眺めていると、「本当にあそこに〝ニライカナイ〟があるんじゃないか?」と思えてくるような、不思議な感覚に陥ります。(そんなことはありません、確実にあそこは西表島ですから(笑))
しかし、現在のように地図もなく、そう簡単に海を渡ることなど出来なかったであろう 古代の人々は、ひょっとすると同じような感覚に陥り、 はるか水平線の向こうに ぼんやりと霞む黒い影を、「神の国」だと考えたのかもしれませんね。
だから信仰の対象にした。
僕はそのまま桟橋の先端であぐらをかいて、亡くなった親友を偲び、瞑想しました。
ただ目を閉じて、穏やかな波の音に自分の呼吸を合わせ、ひたすら座る…30分もそうしいると頭の中は空っぽになり、自分の身体は完全に自然と一体化します。
約1時間経った頃、目を開けると辺りは真っ暗になっており、桟橋に人影はなく、いつの間にか僕1人になっていました。
さっきまであんなに神々しい光に染まっていた海も、ひっそりと静まりかえっています。
ちょうど真上に昇った弓張月が水面に映り、まるで海月(クラゲ)のようにゆらゆらと海面を漂っていました…
死んだ人とは会うことも話すこともできないけれど、こちらから発した〝想い〟や〝祈り〟はきっと届いています。
そしてそれを、神秘的な自然現象として返してくれているんだと思います。
ある時は「風の音」として、ある時は「海の色」として、そしてまたある時は「星の瞬き」として…
こちらがそれを感じとることさえできれば、大切な人との〝対話〟は確実に成立する。
僕は、常々そう思っています。
【追記】
結局この年(2015年)僕は、このあと4月、8月、10月と、まるで誰かに呼ばれているかのように、この場所を訪れています。
そしてなぜか急に、たくさん絵を描くようになりました。
素人なので、お絵かきレベルですが(笑)
【竹富島の集落と水牛車】
【竹富島の民家とハイビスカス】
コメント